「王女の子となった」
• 森谷和夫
「王女の子となった」
出エジプト記1章22節から2章10節
幼子モーセは、無防備にパピルスの籠の中に横たえられていたことを、今日の聖書の箇所、出エジプト記1章22節から2章10節は記します。籠は注意深く葦 の茂みの中に置かれていましたから、ナイル川の流れに流されてしまう心配はありませんでした。それでも、水を飲みに来た猛獣や、小動物を餌にしている鳥 が、生後三ヶ月のモーセを、獲物代わりにしてしまう心配がありました。そして何よりも、水浴びに来たエジプト人が見つけたならば、すぐに、宮廷に連れて行 かれ、その場で、殺されてしまうかもしれなかったわけであります。
エジプトには、王であるファラオより、ユダヤ人に対して、大変苛酷な 勧告がしかれていました。それは、今日の聖書の箇所出エジプト記1章22節から2章10節までに記されていましたように、「生まれた男の子は、一人残らず ナイル川にほうり込め」と言うものであったのであります。再び、ご一緒に、今日の聖書の箇所を見てみたいと思います。1章22節からお読みいたします。 「…」(2章3節まで)。ファラオは、ユダヤ人たちの勢力を抑えようと、躍起になっていました。先週ご一緒に学んだ箇所に記されておりますように、最初に 王は、二人のユダヤ人助産婦に、男の赤ちゃんが生まれたならば、生かしておかずに、殺すようにと命令するのですが、二人の助産婦は「神を畏れる」者たちで あり、王の命令には従わずに、男の子でも生かしておいた為に、このファラオの策略は、失敗に終わったわけであります。自分の策略が失敗に終わったことに腹 を立てたファラオは、今度は、男の子が生まれたらすぐに殺せと命じるのであります。モーセを生んだ母親は、そんなファラオの過酷な命令に従うことは、無論 出来ませんでした。三ヶ月間は、何とか、我が子を隠し通しましたが、もうこれ以上は無理だと思ったのか、彼女は、パピルスで編んだ籠を用意し、水が入り込 んで、籠が沈んでしまわないように、防水処置をして、我が子を、ナイル川へと解き放つのであります。
「赤子の手をひねる」という格言が ありますが、ファラオの布告は、文字通り、無力で、無防備な幼い者を、力ずくでねじ伏せるものでありました。似たようなことが、主イエスがお生まれになっ たときに、時のユダヤ人の王、ヘロデによって行われたことを、皆様も思い起こされることと思います。「新しい王がお生まれになった」と言う知らせを、東方 の博士たちに聞いたヘロデは、自分の立場が危うくなることに不安を覚え、3歳以下の男の子をすべて殺すようにと、ユダヤ人に布告するわけであります。自分 の立場や権力、または財産を守るためには、もっとも無力で、もっとも無防備な赤ん坊を殺すことさえいとわない、そういった、私たち人間の中に存在しうる罪 深さを、私たちは、時代も文化も違うこの二人の王に、見出すことが出来ると思います。そして、私たちは、人間なら誰もが心の内に持っている、この罪深さゆ えにこの世に存在する悪の力を、改めて、脅威を持って認識するのであり、こういった悪の力の前に、時として、無力である自分たちを見出すのではないかと思 うのであります。
幼子モーセは、まさに、この世の悪の力の前に、まったくと言ってよいほど、無力で、無防備にパピルスの籠の中に横た わっていたのでありました。しかし、そんな幼子モーセの前に、助けの手が差し伸べられるのであります。続く、4節からお読みいたします。「…」(10節ま で)。幼子モーセを乗せた籠は、そこへ水浴びに来た王女によって、拾われます。今日の聖書の箇所は、出エジプト記の本文からは独立した、物語を面白くする ために挿入された、創作物語であると言われています。確かに、2章の1節を見てみますと、生まれた男の子が、二人の最初の子であるように記されているとこ ろに、4節になって、突然に姉が登場すること、また、王宮で王女の子として育ったはずのモーセが、5章でファラオと対面した折には、このことが、まったく 言及されていないことなど、話の筋道が、他の箇所とはうまくかみ合わない部分があるわけであります。しかし、私たちは、この箇所が、単に出エジプトと言う 出来事を、興味深くするために挿入されたのではなく、むしろ、先週ご一緒に学びました箇所同様に、出エジプトと言う出来事に示される神の救済物語の真髄を 示す聖書的真理を示すために、挿入されていることに気付かされるわけであります。それは、一見無防備で、無力である幼子モーセを、神は、単に見捨てられず に救われるだけではなく、むしろ、こういった無力な者をも、御自分の御業のために、用いられる方であると言うことなのであります。
無防 備で無力な幼子モーセが、ナイル川の岸辺に漂う様子は、私たち一人一人の、人生を描写していると言えます。大河ナイルは、小さな葦の籠を、容易に飲み込 み、幼子は、なすすべもなく、川底へと沈んでしまう力を持っています。人間的に考えるならば、悲劇的結末は、見えているようなものであるわけです。しか し、そこへ、王女が現れ、ヘブライ人、つまり、ユダヤ人の子であると分かっていながら、モーセを救い、自分の子として育てるのであります。そんな調子の良 いことが、起こるはずがない…、私たちは、あるいは、そう思うかもしれません。確かに、物事は、常に私たちの思い通りに行くとは、限らないわけでありま す。しかし、私たちは、ここで今一度思い起こすのであります。神の御心ならば、すべてが可能である…、神は、人間の罪深い思いや言動をも超えて、御心をな される方である…、そして、この箇所を出エジプト記に挿入した編集者も、まさに、このことを言いたかったと思うのであります。
ご存知で ありますように、使徒言行録27章には、使徒パウロのローマへの航海の様子が記されています。ローマ伝道こそが、神より託された自分の使命であると心得て いたパウロは、自分が囚人となってでもローマへと行く決心を、硬く持ち続けるわけであります。しかし、彼の乗った船が、カイサリアからシドンを経て、ロー マへと航海を始めると、すぐに向かい風に遭い、航行困難となります。何とかクレタ島へと行き着くものの、時は、既に「断食日を過ぎた」頃、つまり、現在で 言う秋も深まる頃を迎えており、当時の常識からするならば、地中海の航海は、無理だと言われていた時期に入っていたわけであります。パウロは、無論このこ とを、自らの経験から心得ており、航海を断念することを船長や船員、それに自分を護衛するローマの百人隊長に勧めるわけであります。しかし、一日でも早 く、無事に囚人パウロをローマへと送り届けたい百人隊長、ならびに、積荷を送り届けなければ利益にならない船長や船主たちは、無理やり、船出を決行するわ けであります。パウロの勧告通り、船は激しい風と嵐に巻き込まれ、何日間にも渡って漂流した後、乗組員たちは、船と積荷を見捨てて、命からがらマルタ島の 近くに漂着します。パウロは、船が、激しい嵐に見舞われ、いよいよ船や積荷だけではなく、乗っている者たちの命も危なくなってきたとき、彼らに向かって自 分の言うとおりにしていれば、こんな危険な目に遭うことはなかったと言います。しかし、それだけではなく、さらに、「元気を出しなさい。船は失うが、皆さ んのうちだれ一人として命を失うものはないのです」と言って、人々を、励ますわけであります。パウロはこの時、乗組員や百人隊長に、「それ見たこと か…」、そう言いたかったのではないのです。そうではなく、神の御心に従ってローマを目指している自分の航海は、必然的に、神に守られた航海である…、だ からこそ、同じ船に乗っている者たちは、誰一人として、命を落とすことはない…、そう言うわけであります。
パウロと幼子モーセが置かれ た状況は、必ずしも同じであるとは言えません。しかし、ともに、人間の利己心ゆえに、悪の力にさらされるという点においては、大変似た状況にあったわけで あります。私たちも、他人の利己心ゆえに、あるいは、自らの罪深さゆえに、この世に存在する大きな悪の力にさらされ、この前に、自分の無力さを思わされる ことが、多々あるのではないかと思います。それは、地中海で嵐にさらされるパウロ、そして、ナイル川の中に無防備に置かれる幼子モーセと、似たような状況 であるわけであります。しかし、私たちは、この幼子モーセや、パウロの経験を通して、もしも、自分が神の御心に従って歩んでいるならば、行き着くべき場所 に、必ず神がお導き下さることを、今一度、思い起こさせられるのであります。主イエスと弟子たちが乗る船が、ガリラヤ湖を渡って、反対側を目指したとき、 激しい嵐に出会い、航行が困難になり、多くの弟子たちが慌てふためき、恐れたことが、マタイ伝の8章、マルコ伝の4章、そしてルカ伝の8章にそれぞれ記さ れています。これらの記事には、弟子たちが、慌てふためく中、一人静かにともの方で寝ておられた主イエスが、描かれています。静かに眠る主イエスは、無責 任で、怠慢なる主イエスを意味するのではなく、どんなときにも、たとえ嵐の中でも、お守り下さる神に信頼し、この神に、御自分の身を委ねる主イエスを意味 するわけであります。
だからこそ、私たちも、主イエスのように、使徒パウロのように、そして、幼子モーセのように、すべてを神に委ね、 神に信頼してよいのであります。私たちが、自分の思いゆえに、間違った方向に進むならば、神は、このことを私たちに示し、正しい方向に導かれます。そし て、私たちが、神の御心に従って歩むならば、行く先にどんな困難の嵐が待ち受けようとも、神が、必ず守り導いて下さるのです。モーセは、男の子の抹殺を命 令した王の、妻である王女に助けられ、「王女の子として」成長しました。私たち人間から見るならば、あり得ないと思えることでも、神は、可能とされる方で あります。この神に、どんなときでも、信頼して、人生と言う航海を進んで行く者でありたいと思います。