• 森谷和夫
「イエスを引き渡そうとして」
マルコによる福音書14章10~21節
先週の水曜日、7月24日、ペンシルバニア州サマーセット郡において、9人の炭坑夫が炭坑に閉じ込められると言う悲惨な事件がおきました。幸いに、昨晩1 時過ぎに、全員が無事に救出されましたが、この損得を超えた、仲間を思う必死の救出作業は、あの9月11日の日における、捨て身の救出作業を繰り広げた消 防士や警察官、その他多くの人々さながら、私たちの心を深く打つ事柄として受け止められたのではないかと思います。現代社会は、損得と言うことが大変重ん じられる社会であると言われます。そして、効率性、将来性ということが、常に問われ、私たちも、多くの場合、少しでも豊かで快適な毎日を送れるようにと願 いつつ、こういったことを規準に日々を過ごしているわけでありますが、昨晩の救出作業のような出来事は、本当の人生の豊かさが、何であるか…、それが、損 得を超えたものであることを、私たちに、思わせるのではないかと思うわけであります。
今日の聖書の箇所、マルコによる福音書14章10 節からの箇所は、はっきりとイスカリオテのユダが、主イエスを裏切る目的で、祭司長たちのところへ出かけたことを記します。再び、今日の聖書の箇所を、ご 一緒に見てみたいと思います。マルコによる福音書14章の10節、11節を、お読みいたします。「…」。この福音書の著者マルコは、ユダの裏切りの理由を 記しませんが、ここには、彼が、「お金」と引き換えに、主イエスをユダヤ人指導者たちに引き渡す約束をしたことが、記されています。つまり、ユダは、主イ エスとお金とを、自分の心の中で、天秤にかけ、どちらが自分にとって得になるかを、考えてみたと言うことであります。ルカによる福音書やヨハネによる福音 書は、この様子を「彼の内にサタンが入った」と記します。マルコは、決して、そのような大げさな表現はとっていませんが、ユダのとった行為は、明らかに、 主イエスの教えに反し、また、福音からそれることであって、それは、「お金」という自分にとって、損得の規準となるものと主イエスに従うと言うことを、自 分のうちで天秤にかけ、その結果、「お金」の方を選ぶときに、起こる出来事だと、ルカやヨハネは、言うわけであります。
確かに、主イエ スに従い、主イエスの教えを重んじることは、多くの場合、無意味で、無駄なことのように思える場合があります。そういった意味では、キリスト教とは、決し て「ご利益宗教」ではないわけであります。現実の生活の中で、主イエスを信じ、主に真剣に従っていく努力をしたがために、かえって苦しく悲しい思いを経験 する、あるいは、この世的に考えるならば、無意味で無駄なことをしたと思える経験を、しばしば、することがあると思います。そして、そんなときに、私たち は、主に従っていくことと、この世の価値観や規準を、自分のうちで天秤にかけてみて、自分が損をするか、得をするかと言うことを規準に、この世の事柄を選 ぶことが、時としてあるのではないかと思うのであります。ユダは、弟子として、主イエスと寝食を共にし、彼なりに真剣に、主イエスに従って来たわけであり ます。そして、そんな中で、多くの試練に出会い、苦しみや悲しみを経験しているうちに、そんな自分の人生が、無駄で無意味なもののように思えてきたのでは ないかと思うのであります。
続く、12節からお読みいたします。「…」(19節まで)。時は、過ぎ越しのお祭りの真っ最中であります。 エルサレムの町は、巡礼に集まった人々で活気立ち、人々は、お祭り気分で興奮気味でありました。そんな雰囲気が、ユダの主イエスに対する思いを、いっそう 空しいものにしたのかもしれません。ご存知でありますように、過越しのお祭りは、出エジプトにおける神の救済の大いなる御業に感謝し、これを祝うためのも のであります。神が、ご自分よりも、まず、私たち人間のことを思って下さった…、そして、この思いを持って、人々を、エジプトより救出された…、このこと を受け止め直すためのものであります。そして、その中で行われた過越しの食事は、人々の罪の贖いのために屠られた小羊を覚えて、自らの歩みを振り返り、神 の前に再び立ち返ることの大切さを覚えるためのものであったわけであります。
この象徴的な食事の席で、主イエスに対する裏切りが暴露さ れたことは、神の愛の恵みの光の前に浮き彫りにされる、人間の罪深さを、私たちに示していると思います。突然、自分たちの前に暴露された主イエスの言葉 に、弟子たちは、大きな驚きを、隠しえません。しかし、興味深いことは、誰も、主イエスの言葉を否定する者がいなかったと言うことであります。誰一人とし て、「主よ、そんなことがあり得るはずがありません…」と言う者はおらず、誰もが、「まさかわたしのことでは…」、そういった、身に染みる思いを持って、 主イエスの言葉を受け止めたということであります。この福音書の著者マルコは、この短い一言の中に、多くの事柄を言い表そうとしていると思います。主イエ スから、主に対する背信の思いを暴露されるとき、ユダだけではなく、弟子たち全員が、それを、真正面から否定することは出来ずにいた…、このことは、多く の事柄を、私たちに思わせると思います。
損得が第一に考慮されるこの世において、主の言葉を否定することが出来ずにいるのは、ユダを初 めとする弟子たちだけではなく、私たちも同様なのではないかと思います。ユダだけではなく、他の弟子たちも、この世の価値観や規準と主イエスの教えとの狭 間で、風に揺れる葦の穂のように、揺れ動き、あるいは、主イエスを捨てて、自分の損得を規準に、違った道を選び取る一歩手前まで来ていたのであります。そ んな彼らに、主はされにこう言われます。
20節、21節をお読みいたします。「…」。「一緒に鉢に食べ物を浸している者」とは、裏切り 者が誰であるかを具体的に指し示す言葉ではなく、寝食を主イエスと共にした、特に主イエスに近かった者を指し示す言葉であると言われています。そういった 意味では、この「十二人のうちの一人」とは、弟子たち一人一人を指し示すのであり、この一人は、主が御自分の命を犠牲にしてまで友となって下さった、私た ち一人一人を指しているとも言えるわけであります。しかし、主イエスは、決して、私たちに怒りと憎しみを込めて、この言葉を投げ掛けているのではないので あります。主イエスのこの御言葉は、私たち人間に対する深い憐れみと嘆きの言葉であり、決して、怒りと憎しみの込められた裁きの言葉ではないのでありま す。主イエスは、私たち人間の、破れ多く弱い、裏切りの心を受け止めつつ、十字架にかかられます。弟子たちを初めとする私たち人間が、時には、自らの損得 を規準に、主イエスに背いてしまうことをご存知であられつつ、あえて、私たちの罪の贖いと救いの為に、御自分の命を犠牲にして下さったのが、主イエスなの であります。
そこで、私たちは、ここで改めて主イエスに対する「裏切り」とは、何かを思わされるのであります。主は、ここで、今正に主 を裏切ろうとしているユダに向かって、そういった者は「不幸」であり、「生まれなかったほうが、よかった」と言われます。私たちは、この世において、神よ りの使命と共に命を与えられます。そして、この世において、私たち人間の思いと常識を超えた、深く大きな愛を持って、神は、私たちに臨んでおられるわけで あります。この愛の神は、私たちが、時として神に絶望し、神から離れてしまうことがあっても、決して、私たちを見捨て、あきらめられる方ではないのであり ます。あえて、裏切ろうとしている者を、今一度、御自分の御前に、その愛によって、引き戻そうと、何度でも繰り返して、私たちに御手を差し伸べる片なので あります。ですから、この差し伸べられる神の御手、注がれる神の愛を、あくまでも拒むことこそが、「不幸」なことであり、そういった者は、生きていても、 本当の意味で、豊かな人生を歩む経験は出来ない…、そう主イエスは、言われるわけであります。
そういった意味では、主イエス、そして神 に対する、本当の「裏切り」とは、差し伸べられる御手、注がれる愛を、あくまでも拒み続ける、私たちの愚かさであるわけであります。主イエスは、十字架の 出来事を通して、本当の豊かさが、何であるかを私たちに示して下さいました。十字架刑という最も呪われた死…、この世の豊かさと美しさから、最も離れた死 を通して、神に信頼し、神の愛を受け、神の前に罪を贖われて、救われた者として人生を歩めることこそが、この世の損得の基準を超えて、豊かな人生であるこ とを、私たちに示して下さったのであります。
私たちは、この主イエスの御言葉に聞き、御業を感謝と喜びと共に受け止め、主に従う努力を 繰り返していくものであります。しかし、その努力とは、自分に差し伸べられる愛の御手を、感謝と喜びと共に、日々受け止めなおしていくことなのでありま す。御自分を、裏切ろうとする者に対しても、主は、自らの御手を差し伸べられます。それは、ユダに対しても、私たちに対しても、同様であるわけでありま す。私たちの人生は、この主の御手をとることによって、再び、動き出します。損得を超えて、御自分の命を、私たちの為に投げ出された主イエスの御手を、ど んな時にも、感謝と恐れを持って、受け止め直していく…、ここにこそ、本当に豊かな人生を歩む者の姿がある、このことを覚えて歩む者でありたいと思いま す。
• 森谷和夫
「するままにさせておきなさい」
マルコによる福音書14章3~9節
幼子は、裸でいるのが大好きであります。1歳7ヶ月になるうちの子も同様ですが、大人が真似をしたならば非常識と思えるときや場所においても、平気で裸に なり遊ぶ姿を見かけたりします。そして、同様に、彼らは自分の感情や思いを飾ることなく、素直に表現いたします。特に親に対する愛情は、何時いかなる場所 においてもストレートに表現し、幼子は自分と親との間に確かに存在する愛の絆を軸とし、少しずつ成長していくことは、皆様もご存知の通りであります。
今日の聖書の箇所、マルコによる福音書14章3節から9節には、自分の主イエスに対する思いを、常識にとらわれずにストレートに表現した女性が、当時の社 会的常識と宗教的価値観に身を固め、安易に、いわゆる「もっともらしいこと」を言う人々に対して浮き彫りにされて記されています。興味深いことは、この女 性の行為を厳しくとがめた人々に対して、主イエスが、「するままにさせておきなさい」と言われただけではなく、この女性の行為を「良いこと」として評価さ れたことであります。私たちは、この箇所を通して、いったいどういったことが、神の目には「良いこと」として映るのかを、改めて示されるだけではなく、本 当の愛の行為がどういったものであるかにも、気付かされるのであります。
再び、今日の聖書の箇所を、ご一緒に見てみたいと思いますが、 マルコによる福音書14章の3節から6節までを、お読みいたします。「…」。この彼女の行為を見て、人々が憤慨したことが、今日の聖書の箇所には記されて います。当時のユダヤ人社会は、貧しい人々に対するほどこしを、宗教的義務としており、これを行うことを、大きな美徳していていたことは、皆様も、ご存知 の通りであります。また、主イエス御自身も、貧しい人たちを憐れむ御言葉を語られ、また、御業をなしているわけであり、人々が、憤慨したことも、納得がい くわけであります。マルコ伝で「何人かが」とされている人々は、マタイ伝では「弟子たち」とされ、さらにヨハネ伝では「イスカリオテのユダ」とされていま す。それが、誰であったかを断定することは、それほど重要ではありませんが、これの伝承から、「この人々」が、主イエスに大変近かった者たちであることが 分かると思います。そして、彼らは、主イエスに、近い者…、主に従う者であったからこそ、「もっともらしい」発言をしたわけであります。主イエスは、常 に、隣人愛の大切さを語られ、また、これに伴う御業を行われていました。彼らは、このことを知っていたからこそ、彼女のこの一見常識破りで、無駄とも思え る行為を批判したわけであります。
しかし、彼らは、本当に主イエスの語る隣人愛を理解し、主イエスに見習って歩んでいたのでしょうか。 ヨハネは、この女性の行為を非難したのは、イスカリオテのユダであったと言います。ヨハネによる福音書によれば、彼は、弟子たちの会計をごまかしていただ けではなく、主イエスを裏切り、少々の銀のために、主イエスをユダヤ人指導者たちに売った者とされています。マタイは、彼女を非難したのが、「弟子たち」 であったと言いますが、マタイも、決して弟子たちを「模範的キリスト者」としては、描いていません。マタイは、弟子たちが、十字架にかかった主イエスを見 捨てて、自分の故郷に逃げて行ってしまったことを、明確に書き記しているのであります。こういった者たちが、「もっともらしこと」として語る隣人愛が、ど れ程のものであるのか…、これには、大いに疑問の余地があるわけであります。そして、実は、それは、私たちも、同様であるのではないかと思うわけでありま す。この世の常識から考えるならば、お互いに助け合うこと、貧しい者を助けることこそが、正しいこと、良いこととされています。ちまたには、ヒューマニズ ムにのっとった慈善事業団体が、ひしめき合い、そして、マスコミや電話などを通して、自分たちの主義主張と訴えるために、日夜懸命に努力しております。そ して、私たちは、社会の一員として、当然のごとく、この義務を果たそうとするわけであります。他人の為に、一生懸命に何かをすることは、大切なことであり ます。しかし、私たちは、本当に、心から、自分よりも、まず他人のことを思っているのでしょうか。そういう人々も、あるいは、いるかもしれません。しか し、私たちの多くは、こういったことが、無言のうちに自分たちに求められていることであり、これに応えないことによって、社会の中で、他人から後ろ指をさ されたり、あるいは、軽蔑されたり、また、悪く思われたくない…、そういった思いが、まず働くのではないかと思うのであります。あるいは、主の弟子たちの ように、主に従う者として、他人に仕えることこそが、絶対条件であるかのように、勘違いしているのではないかと思うのであります。
聖書 の記す原罪は、人間のこういった姿を、明確に示しています。禁断の実を食べてしまったことを、神に問われたとき、アダムはまずイブのせいにし、イブは蛇の せいにしました。こういった人間の姿は、自分の正当性を立証するために、義務感から隣人を愛そうとする、私たち人間の姿を浮き彫りにしているわけでありま す。常識的には、人を憎み、殺人を犯すことは、悪いことであり、隣人を愛することは、正しいこと、良いことであります。しかし、普段から、常識を重んじ、 この中に深く浸かっている私たちでありますが、根底の部分では、最も常識的なことさえも、実行できない存在であることが、聖書によって、指摘されているの であります。
ご存知でありますように、男たちの集まる宴席に、給仕またはその場の主人以外の女性が入ることは、非常識であるだけか、禁 断の行為とされていました。しかし、今日の聖書の箇所に登場するこの女性は、常識にとらわれることなく、高価な香油を主イエスに注ぐという、当時のユダヤ 人社会において、宗教的規準にそぐわないと思われることを、人の目をはばかることなく、行ったわけであります。マルコより後の時代に記されたルカによる福 音書では、この女性は「マグダラのマリア」とされています。ご存知でありますように、マグダラのマリアは、主イエスによって「七つの悪霊を追い出された」 女性として、マルコによる福音書にも登場します。「七つの悪霊を追い出された」とは、これ以上に無いほどの深い罪を赦されたということであります。彼女に ついては、新約聖書に登場する数少ない女性弟子として、様々な推測が、人々の間でされていますが、その中には、彼女が、ユダヤ人社会という、男尊女卑的社 会にあって、余りにも野心家であったために、影の社会の生業(なりわい)である娼婦となって、権力を持つようになったとも言われているわけであります。し かし、たとえそれがどんな形であれ、女性が、ユダヤ人社会において、力を持つことを、男たちが許すわけがなく、彼女は、自分を散々利用した男たちに落とし 入れられ、姦淫の罪で捕らえられてしまうわけであります。
男たちの前でさらし者となっていた彼女を、彼らから救われただけではなく、彼 女の罪を、主イエスが、赦されたことは、皆様もご存知の通りであります。この主イエスとの出会いによって、他の多くの者同様に、彼女の人生は、180度変 えられました。少しばかり飛躍にもなりますが、今まで、常識にがんじがらめにされ、そんな中でも、そういった常識を潜り抜け、たてまえの裏に存在する、こ の世の矛盾の中で、好きなように振舞う男たちを見返してやろうと、躍起になっていたのが、以前のマグダラのマリアであったと言うことも、あるいは出来るの ではないかと思います。しかし、彼女は、何よりも、神の深い愛と赦しを語り、そして、この神の深い愛を元に、すべてを行われる主イエスとの出会いによっ て、この世の常識よりも、また、その裏に存在する、利己的な価値観や規準よりも、さらに、大切なものが存在することを、気付かされたわけであります。そこ で、彼女は、すべてを脱ぎ捨てて、裸となって主イエスに従っていくことを、決心するのであります。自分は、隣人を愛せなかっただけではなく、男たちをおと しめ、見返してやろうと躍起になっていた…、しかし、この世には、こんな自分さえも、常識や建前無しに、心から愛してくださる方がおられる…、このことに 気付かされた彼女は、今度は、自らがこの方を、飾ること無しに、ストレートに愛し返そうとするのであり、今日の聖書の箇所に記される行為は、そういった思 いの表れであるのであります。
続く7節からお読みいたします。「…」(9節まで)。主イエスは、この女性の行為を「良いこと」として評 価されます。隣人を、心から愛せない私たち人間が、神に目を向けることこそが、「良いこと」、「良い業」である、そう主イエスは言われるわけであります。 隣人を愛せずに、人を裏切り、おとしめてしまう…、あるいは、人から裏切られ、おとしめられると言う経験を、あるいは、私たちもするのではないかと思いま す。そして、さらに人間関係に絶望し、独り、自分のうちに閉じこもってしまうという経験を、することが、あるかと思います。そんな時、私たちは、この女性 のように、神に目を向けることが、許されているのであります。そして、神が、どれほど、この自分を愛し、この自分を救われるために、御自分の御子さえも、 私たちのために、ささげられたかを、今一度、感謝と共に受け止めなおすことが、許されているのであります。このことを、もう一度裸の自分に戻って、改め て、心に受け止めなおせるならば、私たちには、今一度希望と生きる勇気が与えられると思います。そして、この神と自分との間に、確かに存在する愛の絆を軸 に、今一度、自分の存在を確かめ直し、隣人との関係を、見つめなおしていくことが、出来るのであります。
神が常識的に物事を受け止めら れる方ならば、破れ多く、罪深い私たち人間は、既に裁きを受けていたはずであります。しかし、神は、理屈や人間的な常識を超えて、私たちを愛し、受け入れ てくださる方なのであります。この女性は、この深い神の愛に、主イエスを通して出会いました。そして、この愛の神との出会いによって、今一度、裸に戻っ て、自分の存在を見つめ直す経験をすることが、許されたのであります。私たちの存在の根底にあるのは、神の愛と、その前にある裸の自分であります。この神 との関係において、私たちは、自分を飾ることなく、裸の自分を差し出すことが許されています。この、飾らない、ストレートで素直な神との関係に、自分の生 きる希望と勇気の源がある…、この恵みを感謝して、生きる者でありたいと思います。