「あのエジプト人を殺したように」
• 森谷和夫
「あのエジプト人を殺したように」
出エジプト記2章11~25節
モーセは、生まれ育ったエジプトの地を後にし、シナイ半島と死海との中間点にあったとされるミディアンの地へと、逃げなければなりませんでした。ユダヤ人 の子として生まれ、エジプトの王、ファラオの宮殿で王の子として育ち、同胞であるユダヤ人たちが、エジプト人から不当な仕打ちを受けているのを目の当たり にして育ったモーセは、何時しか、自分の身の危険を顧みることなく、苦しむ人を助ける、そんな正義感にあふれた青年へと成長するのであります。
しかし、彼が、エジプトの地を後にして、ミディアンの地へと逃げなければならなかったのは、この彼が内に秘める、正義感ゆえであったわけであります。モー セは、同胞のユダヤ人が、エジプト人の工事監督から、不当に激しく鞭打たれているのを見て、このエジプト人の工事監督を、石で撃ち殺してしまうわけであり ます。若気の至りであったのかもしれません・・・。あるいは、今まで自分のうちに鬱積していた、エジプト人に対する憎しみが、一気に爆発したのかもしれま せん・・・。いずれにしましても、彼の殺人は、父であるファラオの耳に入ることとなり、彼は、ミディアンの地へと逃げなければならなくなるのであります。
彼のミディアンへの逃亡は、自分で担わなければならない責任からの逃避であり、それは、自らの罪深さからの逃避でありました。確かに、彼は、自分の身の危 険をも顧みずに、捨て身で、自分の正義感ゆえに、同胞をかばうまいとして行動しました。このモーセの正義感が、彼の人格の一部として、しっかりと形成され ていることは、彼が、ミディアンの地に着いた後にも、同様に、不当に女性たちを扱う、羊飼いの男たちから、女羊飼いたちを守ったことからも、見て取ること が出来るわけであります。彼は、自分の正義を持って決断を下し、そして、行動を起こして、ことを裁いたわけであります。しかし、彼の義は、相手の人格を まったく無視する殺人と言う形で図られ、さらに言うならば、彼は、自ら下した裁定ゆえに起こった結果に、最後まで責任を持つことが出来ずに、その場から逃 げてしまったわけであります。
このモーセの姿を通して、聖書は、人間の持つ正義、そして、これによる裁きの不完全さを、私たちに示しま す。そして、同時に、私たち人間の罪は、自分で背負うには、余りにも重過ぎることを、私たちに示しているのであります。その結果、私たち人間は、モーセの ように、自ら犯した罪に背を向け、安住の地を求めて、さまようことになるわけであります。現代の社会において、私たちが、金の亡者となりやすいこ と・・・、あるいは、物質的な事柄で、魂の問題を解決しようとすることが、このことを物語っているのではないかと思います。
モーセに とって、それは、ミディアンの地でありました。ミディアンの地には、彼を知る者は誰もいなく、また、彼の殺人について知る者も、誰一人としていなかったか らであります。彼は、自分の本来の姿、正義感にあふれつつも罪深い自分の姿から逃避し、ひっそりと、ミディアンの地で、羊飼いとして暮らすわけでありま す。モーセ同様に、私たちも、自分の罪深さから背を向け、この世において、ひっそりと暮らすことは、あるいは、容易なことであると思います。特に、価値観 や規準が多様化する現代において、自らのうちに形成された正義を主体化することによって絶対化し、その反面、自らの罪深さを客観的に分析して、一般化して しまうことは、私たちにとって、大変容易なことであると思うわけであります。しかし、聖書は、私たち人間が、必ず自分の犯した過ち、そして罪深さと向き合 わなければならないことを示すわけであります。
今日の聖書の箇所、出エジプト記2章11節から25節は、神によるモーセの召命の出来事 のプロローグとして記されています。神は、ミディアンの地にいるモーセに直接臨まれ、モーセを、出エジプトという大いなる救いの御業を、この世において担 う者として、召し出されるわけであります。召命とは、私たち人間と神との人格的出会いであり、それは、魂の深い部分における出会いであるわけであります。 神は、私たち人間のように、不本意に、人間と向き合われる方ではありません。神は常に、御自分のすべてを持って、私たち人間に臨まれ、すべてを持って、私 たちを支えてくださる方であります。私たち人間は、無造作に、人と約束をすることがあっても、神は、御自分のすべてを持って、私たちに臨み、私たちのすべ てを受け止めつつ、私たちと契約を交わされる方なのであります。
この神との契約こそが、神からの召命であるわけであります。今日の聖書 の箇所には、神が、「労働のゆえに助けを求める(ユダヤ人たちの)叫び声と嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた」(24節) と記されています。人間ならば、はるか昔のこととして忘れ去ってしまう契約を、神は、400年余りの年月を経て、改めて、全存在をかけて、思い起こされる わけであります。モーセは、この神との出会いによって、自分の罪深さを受け止め直すのであります。モーセを召命されるに当たって、自分の罪故に、自分自身 を幾度と無く否定し、神の召命を拒むモーセに対して、神は、忍耐と寛容を持って臨み、そして、御自分が、モーセのすべてを受け止めつつ、それでも、受け入 れていることを示されます。モーセは、この神との出会いによって、再び本当の自分の姿・・・、罪深い自分と向き合うことを可能とされ、その中から、自分の 進むべき道を、選び取っていくわけであります。
私たちは、十字架の主イエスとの出会いによって、罪深い自分の姿と、改めて向き合う機会 を与えられます。しかし、私たちが、忘れてはならないことは、この十字架の主は、私たちの罪を裁く主であるのではないということであります。そうではな く、御自分の存在のすべてをかけて、罪深い私たちを、根底から支えてくださる主・・・、自分では背負い切れなかった罪を、御自分の存在のすべてをかけて背 負って下さる、そういった主であるということであります。私たちも、モーセ同様に、自分の犯した罪を背負いきれず、人知れず、ひっそりと暮らすことを、ど こかで望む、弱い存在であります。しかし、それでは、私たち人間は、本当の意味で成長することは出来ないのであります。モーセが、ミディアンの地に留まり 続けることを望み、罪深い本来の自分と向き合うことが無かったならば、彼は、出エジプトという、神の大いなる救済の御業に参与することは出来なかったわけ であります。同様に、自分の姿と真正面から向き合ってこそ、私たちは、神の御業に参与することが許され、本当の意味で、成長していくことが出来るわけであ ります。そして、このことは、全存在をかけて私たちに臨んで下さる神との出会いによって、御自分の命を犠牲にしてまで、私たちの罪を担って下さった十字架 の主イエスとの出会いによってのみ、可能となるわけであります。
私たちのより頼む正義は、この愛の神の義による正義であります。それ は、人間の主体的な見解による、不完全な正義ではなく、神が、全存在をかけて担って下さる、愛による義であるわけであります。神は、この愛の義を持って、 私たちに臨み、私たちを受け入れて下さる方であります。この神との出会いによって、私たちは、本当の自分と向き合い、そこから新たなる力を得て、この世に 押し出されていく者であります。私たちの罪を担って下さる主イエスゆえに、私たちは、新たに進み始めることが許される・・・、このことを、感謝して生きる 者でありたいと思います。