復活のキリストと共に新しい歩みを!
• 浅 田 容 子
復活のキリストと共に新しい歩みを!
ルカ24:30-32
「・・・一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった が、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と語り合っ た。」 (ルカ24:30-32) 今年の「灰の水曜日(Ash Wednesday)」に、我々の教会はMJM(Metropolitan Japanese Ministry: 聖公会日本語ミニストリー)の「灰の式と聖餐式礼拝」に出席させていただいて、景山恭子ミッショナーのメッセージを伺う事ができ感謝でした。ロイド司祭よ り額に灰をつけていただき、「あなたは塵から造られ、塵に返る」(創世記3:19)と語られたみ言葉が心に沁みました。自らの罪を悔い40日の「受難節 (大斎:レント)」に入りました。 時を同じくして映画「パッションPassion」が封切られ、話題になっています。私はキリストの余りにもひどい受難を直視できないので出かけておりませ んが、この季節にキリストが誰のために苦しまれ、十字架にかかられたのかを改めて思い、聖書を深く読み信仰を新たにする事は良い事だと思います。 キリストの復活が伝えられた日の午後、エルサレムから10キロほど離れたエマオ村に向って二人の旅人が真剣に語り合い論じ合いながら歩いていました。彼ら は、主イエスの十字架の死に失望落胆し、復活の知らせを信じられないと語り合っていたのです。そこに、復活のキリストが二人に加わって旅を続けました。信 仰者はいつも人生において「同行二人」ですが、彼らはキリストを見ることが出来ませんでした。私たちもしばしば傍らにいてくださるキリストを見失って恐れ たり悩んだりつまずいたりして孤独な人生を歩んでいます。議論ばかりしています。・・・ ところが、イエスと共に食事の席についたとき、彼らは「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イ エスだと分かった。」という体験をしました。聖餐に与ることが、生きたキリストを体験する恵みの時である事が分かります。信仰をもって聖餐に与り、キリス トの体と血を頂くとき、我々は聖霊の助けによりキリストと一体にされる体験をするのです。 そして、二人は気づきました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と語り合った。」 彼ら は、いくら熱心に議論しても復活は わかりませんでした。キリストご自身の語られるみ言葉に耳を傾 小山晃佑先生(ユニオン神学校名誉教授)は、次のように述べておられます。「キリストは最後の夜、弟子たちに、この割かれたパンのように自らの体が裂かれ ると教えられました。この厳粛で神聖な象徴的意味をご自分が裏切られる夜であるのに、それが最善の時であるとして教えられました!現代の軍事的感覚から見 れば、彼にとって抵抗の時、敵の手に渡される破滅の時と言えるでしょう。しかしイエス・キリストは強い愛のシンボルを残されました。パンを割く瞬間はキリ スト教会にとって最も神聖な瞬間となりました。裂かれたキリスト–切り裂かれバラバラにされたキリス–こそが破れた世界を癒されるお方です!新約聖書 は、美しい、切り裂かれない、バラバラにされないキリストを語ってはおりません。「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架 につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(第一コリント2:2)」 ((Kosuke Koyama, “Mount Fuji and Mount Sinai- A Critique of Idols”, Orbis Books, Maryknoll, New York, 1984. p.242) 「破れる(broken)と言う言葉は否定的な言葉です。・・・しかし裂かれたキリストを語る事は、創造、建設、統合(融和)、和解、癒しを語る事なので す。・・・弟子たちと共に過ごされた最後の夜、キリストはパンを割かれました。彼がパンを二つに裂いて皆に示された時、割かれたパンの2片の間に空間がで きました。この新しい空間こそキリストの命の代価によって創られたものです。・・・この特別な空間はキリストの苦難の愛によってもたらされたのです。この 空間に教会が建てられました。これは神聖な空間です。すべての他の空間はこの神聖な、礼典的な空間の意味を学ばねばなりません。このように、クリスチャン の神聖についての理解は最後の晩餐のパン割きのイメージに中にあることを知らねばなりません。・・・このキリストの「神聖:holiness」と「破れ: brokenness」の一致を「礼典的:sacramental」と言います。・・・キリストにおける神聖と破れの一致がつねに教会自体の改革を奮起さ せるちからとなって来たのです。(同書 pp.242-245) 「だから。キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(第2コリント5:17) さあ、イースター礼拝で聖書のみ言葉に聴き、聖餐式にあずかって、復活のキリストと共に歩みだしましょう。教会もキリストの復活の力と命を頂いて新しい改 革の歩みをしたいものです。 「主イエスと共に歩きましょう。どこまでも。 主イエスと共に歩きましょう。いつも。 嬉しいときも、悲しいときも。 歩きましょう。どこまでも。 主イエスと共に歩きましょう。いつも。」(聖歌) 皆様、イースターおめでとう!!