あなたがたは、わたしを愛しているならば
• 牧師:相良昌彦
あなたがたは、わたしを愛しているならば
ヨハネ14:15
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る(ヨハネ14:15)。」
主の「掟」とは、私たちを拘束する規則なのでしょうか。いいえ、それは単なる規則、規範ではなく、私たちへの神様の祝福なのです。なぜなら私たちは主な る神様から命を与えられている存在であるからです。神様は、どの瞬間においても新たな命の息吹ももって私たちを満たしてくださいます。だからこそ、私たち は主に愛されていることを、互いに命の祝福を祝うことが出来ることを知る者であるのです。この私たちは、主なる神様の眼差しの中では、美しく、価値ある存 在なのです。そのことを聖書は始めから私たちに告げています。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よAそれは極めて良かった(創世記1: 31)。」主の愛と慈しみが私たちから離れることは決してないのです。私たちの不幸は、自分の存在や生活に、自らの努力や想いを通して意味を見出そうと忙 しくしていることかもしれません。そのような有様の中で、私たちは徐々に、神様の御姿にこの私たちが造られ、祝福を互いに分かち合えるよう生かされている ことを忘れてしまっているのではないでしょうか。だからこそ、この私たちに神の独り子、主イエスの十字架が示されたのです。私たちは、主の十字架の救いに よってのみ、主なる神の変わることのない愛の内に取り戻されることを知らなければなりません。主イエスの十字架の苦しみの御姿によって、復活の主に御声を かけられる幸いによって私たちに伝えられる真実です。その時、私たちは互いに主なる神の御姿に造られた幸いを分かち合えるのです。与えられている温かさ を、そして主にある生き方を喜び合えるのです。私たちこそが、この世にあっては神の愛と御心の見える形、姿なのです。そしてこの祝福は、教会に招かれ、主 イエスを慕う者たちだけで分かち合う幸いではありません。使徒言行録は「世界とその中の万物を造られた神」が「すべての人に命と息と、その他すべてのもの を与えてくださる(使徒17:24-25)」ことを告げています。「すべての人」と分かち合う幸いが今朝示されたのです。「わたしの掟を受け入れ、それを 守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す(ヨハネ14: 21)。」この主の約束は、もう私たちの只中に現われています。この祝福の内にある、私たちは神の民なのです。