• 相良昌彦牧師
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい
マタイ6:33
「何 よりもまず、神の国と神の義を求めなさい(マタイ6:33)」。ここに主イエスの御言葉の本質があります。私たちには日々望みが多くあります。何を望んで いるのかさえわからないことすらあるでしょう。その私たちに「神の国と神の義を求める」ことを通して、何を祈るかではなく、誰に祈るのかがここに問われて いるのです。主なる神様に祈ること。あたりまえのことかもしれません。しかし、神の民であるユダヤの人々の生活の只中で主は語られました。そして教会の礼 拝において今、私たちは今朝の御言葉をいただいているのです。私のこの願いがかなえられさえすれば、相手は何でも誰でもかまわない。そのような思いにとら われるとき、私たちの心の中で、主なる神様も、主イエスも失われているからです。祈りの最も初めに、祈るこの私が神様に愛されていることを確かに覚えてい るか、主イエスの父なる神様への豊かな信頼が胸の内にあるかと、主イエスは問いかけておられるのです。「だれも、二人の主人には兼ね仕えることはできない (24)」。ここで用いられている「神と富」の「富」。これは私たちがより頼みたいと願う存在を表しています。「神の国と神の義」のみを求めるのか、そう でないものを頼みとし、求めるのか。ここには中間がありません。「神の国と神の義」を求めること。それは神様の御心に適うことを喜ぶことです。ではなぜ、 主の御心が私たちにとって最も幸いとなるのでしょうか。それは、私たち自身が、創造の神様の祝福、そして良きものとしてここに在るからです。私たち自身 が、神様に喜ばれている存在であることを確かめるその時、互いに良き賜物をもって仕えあう事が出来るからです。神様を唯一の信頼の存在とすることであり、 神の国の幸いを運び、分かち合う者として生きることです。その私たちに出来得る、主の御前にあって最も神様を悲しませること、それは、私たちが、私たちへ の主の愛をあきらめることなのではないでしょうか。しかし、私たちが諦め、顧みすらしなくなっているそのとき、世界の誰もが想像もしていなかったそのと き、主の十字架への歩みを通して、父なる神様から私たちへの慈しみは変わらないことが明らかにされました。主なる神様の愛の歩みは止まることはなかったの です。主なる神様の創造の祝福は中断されてはいなかったのです。そして、私たちが自らのために、また家族友人、愛する者のために最善を願うことと、神様の み心が適うことは矛盾しないのです。主イエスはまた、私たち一人一人に切なる願いがあることもご存知であり、それらの望みを祈るなと言っておられるのでは ないのです。私たちがどこにあっても、どのように生きていても、この私たちは愛され、養われ、生かされているのです。だからこそ、この私たちの中から、感 謝と喜びの応答としての主の救いを祝い、分かち合う生き方が生まれるためにこそ、まず神様に立ち帰ることが言われているのです。「神の国と神の義」を願い 求めることは、主なる神様の最も良きものとして他者をも生かすことの始まりであるからです。
• 牧師:相良昌彦
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」
マタイ28:19
「あ なたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい(マタイ28:19)。」主イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる (20)」との約束と共にこの御言葉を下さっているのです。主が共におられるから、そして主こそが私たちのすべての良きわざの根源であられるから、私たち は主が言われることを行っていくことが出来るのです。私たちは、主なる神様に命の息吹をいただいたその初めの存在へと生まれ変わっていきます。私たちは主 なる神様に愛される神の子らです。主なる神様は、この私たちのために主イエスを十字架へと歩ませられたのです。私たちは主なる神様に一人ひとり数えられ、 養われ、この命を祝われている幸いなものなのです。この私たちに必要なことは、主イエスとの出会いの時へと、主イエスに命の御言葉を、約束をいただいたそ の時に戻ることなのです。主イエスの御言葉によって、私たちが誰であるのか、私たちがなぜここに生かされているのかを思い起こすことが出来ます。私たちは 主なる神様がそう望まれたからこそ、ここに今を生きています。私たちは、良きものを分かち合い、主イエスが確かにして下さる主の平和の内に互いに仕えあえ る存在です。既に十分に、私たちは命の御言葉を、神様の御前にすべての人が調和をもって共に生きるための唯一の土台である主イエスから聴いているのではな いでしょうか。確かなことは、祝福をもって共にいてくださる神様の臨在をこの私たちが分かち合うということなのです。「何も持たない者が見知らぬ人と分ち 合う時、渇ききっている者がその水のすべてを与え合うとき、障碍をもつ者がその弱さを通して人を強める時、私たちは気づく。神が今も私たちの行く道を共に おられることを。」これはかつてDrew神学校からエルサルバドルへと、その地にある人々の生き方に聴き、また互いに分かち合うため出かけたときに共にし たメソジスト教会の讃美歌です。初めは互いに見知らぬ者であった私たちは、喜びも、痛みを伴う悲しみをも経験し合う家族として主なる神様の御前にひとつと されていきました。主イエスの言われる「行くこと」は慈しみと顧みをもって見守って下さる神の御前にあって、神に愛される一人一人と共にいること、すべて を共に味わうことです。「弟子にすること」とは、この私たちが、神の御前に豊かに生きることを取り戻す助けを互いにすることが出来る存在であることを言っ ているのです。先の讃美歌はこのように終わります。「わたしたちの家庭が良きものに満たされるそのとき、私たちが戦いではなく平和を築くことを始めると き、出会うすべての他者が隣人と呼ばれるとき、私たちは気づく。神が今も私たちの行く道を共におられることを。」私たちは確かに主イエスの救いの知らせ を、与えられる最も良きものを分かち合うとしているのです。それはこの私たちが既に豊かに主イエスからの救いに、喜びと感謝をもって生かされているからで す。なによりも主イエスと共に生きることがかけがえのない幸いであるからなのです。私たちは神の国に生かされる隣人です。共に生き、共に歩む家族です。私 たちが主なる神様の御心を分かち合います。それが三位一体の神様の臨在をこの身に現すことなのです。