何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい

05月 25日 2008年 | カテゴリ: 未定 |

相良昌彦牧師

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい

マタイ6:33

「何 よりもまず、神の国と神の義を求めなさい(マタイ6:33)」。ここに主イエスの御言葉の本質があります。私たちには日々望みが多くあります。何を望んで いるのかさえわからないことすらあるでしょう。その私たちに「神の国と神の義を求める」ことを通して、何を祈るかではなく、誰に祈るのかがここに問われて いるのです。主なる神様に祈ること。あたりまえのことかもしれません。しかし、神の民であるユダヤの人々の生活の只中で主は語られました。そして教会の礼 拝において今、私たちは今朝の御言葉をいただいているのです。私のこの願いがかなえられさえすれば、相手は何でも誰でもかまわない。そのような思いにとら われるとき、私たちの心の中で、主なる神様も、主イエスも失われているからです。祈りの最も初めに、祈るこの私が神様に愛されていることを確かに覚えてい るか、主イエスの父なる神様への豊かな信頼が胸の内にあるかと、主イエスは問いかけておられるのです。「だれも、二人の主人には兼ね仕えることはできない 24)」。ここで用いられている「神と富」の「富」。これは私たちがより頼みたいと願う存在を表しています。「神の国と神の義」のみを求めるのか、そう でないものを頼みとし、求めるのか。ここには中間がありません。「神の国と神の義」を求めること。それは神様の御心に適うことを喜ぶことです。ではなぜ、 主の御心が私たちにとって最も幸いとなるのでしょうか。それは、私たち自身が、創造の神様の祝福、そして良きものとしてここに在るからです。私たち自身 が、神様に喜ばれている存在であることを確かめるその時、互いに良き賜物をもって仕えあう事が出来るからです。神様を唯一の信頼の存在とすることであり、 神の国の幸いを運び、分かち合う者として生きることです。その私たちに出来得る、主の御前にあって最も神様を悲しませること、それは、私たちが、私たちへ の主の愛をあきらめることなのではないでしょうか。しかし、私たちが諦め、顧みすらしなくなっているそのとき、世界の誰もが想像もしていなかったそのと き、主の十字架への歩みを通して、父なる神様から私たちへの慈しみは変わらないことが明らかにされました。主なる神様の愛の歩みは止まることはなかったの です。主なる神様の創造の祝福は中断されてはいなかったのです。そして、私たちが自らのために、また家族友人、愛する者のために最善を願うことと、神様の み心が適うことは矛盾しないのです。主イエスはまた、私たち一人一人に切なる願いがあることもご存知であり、それらの望みを祈るなと言っておられるのでは ないのです。私たちがどこにあっても、どのように生きていても、この私たちは愛され、養われ、生かされているのです。だからこそ、この私たちの中から、感 謝と喜びの応答としての主の救いを祝い、分かち合う生き方が生まれるためにこそ、まず神様に立ち帰ることが言われているのです。「神の国と神の義」を願い 求めることは、主なる神様の最も良きものとして他者をも生かすことの始まりであるからです。

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