「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」

05月 19日 2008年 | カテゴリ: 未定 | コメント: 0 »

牧師:相良昌彦

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」

マタイ28:19

「あ なたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい(マタイ28:19)。」主イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる 20)」との約束と共にこの御言葉を下さっているのです。主が共におられるから、そして主こそが私たちのすべての良きわざの根源であられるから、私たち は主が言われることを行っていくことが出来るのです。私たちは、主なる神様に命の息吹をいただいたその初めの存在へと生まれ変わっていきます。私たちは主 なる神様に愛される神の子らです。主なる神様は、この私たちのために主イエスを十字架へと歩ませられたのです。私たちは主なる神様に一人ひとり数えられ、 養われ、この命を祝われている幸いなものなのです。この私たちに必要なことは、主イエスとの出会いの時へと、主イエスに命の御言葉を、約束をいただいたそ の時に戻ることなのです。主イエスの御言葉によって、私たちが誰であるのか、私たちがなぜここに生かされているのかを思い起こすことが出来ます。私たちは 主なる神様がそう望まれたからこそ、ここに今を生きています。私たちは、良きものを分かち合い、主イエスが確かにして下さる主の平和の内に互いに仕えあえ る存在です。既に十分に、私たちは命の御言葉を、神様の御前にすべての人が調和をもって共に生きるための唯一の土台である主イエスから聴いているのではな いでしょうか。確かなことは、祝福をもって共にいてくださる神様の臨在をこの私たちが分かち合うということなのです。「何も持たない者が見知らぬ人と分ち 合う時、渇ききっている者がその水のすべてを与え合うとき、障碍をもつ者がその弱さを通して人を強める時、私たちは気づく。神が今も私たちの行く道を共に おられることを。」これはかつてDrew神学校からエルサルバドルへと、その地にある人々の生き方に聴き、また互いに分かち合うため出かけたときに共にし たメソジスト教会の讃美歌です。初めは互いに見知らぬ者であった私たちは、喜びも、痛みを伴う悲しみをも経験し合う家族として主なる神様の御前にひとつと されていきました。主イエスの言われる「行くこと」は慈しみと顧みをもって見守って下さる神の御前にあって、神に愛される一人一人と共にいること、すべて を共に味わうことです。「弟子にすること」とは、この私たちが、神の御前に豊かに生きることを取り戻す助けを互いにすることが出来る存在であることを言っ ているのです。先の讃美歌はこのように終わります。「わたしたちの家庭が良きものに満たされるそのとき、私たちが戦いではなく平和を築くことを始めると き、出会うすべての他者が隣人と呼ばれるとき、私たちは気づく。神が今も私たちの行く道を共におられることを。」私たちは確かに主イエスの救いの知らせ を、与えられる最も良きものを分かち合うとしているのです。それはこの私たちが既に豊かに主イエスからの救いに、喜びと感謝をもって生かされているからで す。なによりも主イエスと共に生きることがかけがえのない幸いであるからなのです。私たちは神の国に生かされる隣人です。共に生き、共に歩む家族です。私 たちが主なる神様の御心を分かち合います。それが三位一体の神様の臨在をこの身に現すことなのです。

「あなたがたに平和があるように」

05月 11日 2008年 | カテゴリ: 未定 | コメント: 0 »

牧師:相良昌彦

「あなたがたに平和があるように」

ヨハネ20:19

「あ なたがたに平和があるように(ヨハネ20:19)。」 私たちが求めて止まない、私たちに最も必要な安心、保証です。しかしどのように求めても完全な保証は得られません。ここに描かれているぺテロは、主イエス が十字架へと上げられるその直前に、主を裏切りました。ぺテロが人々を恐れ、逃げていたその間に主イエスは亡くなられたのです。どれほど自身を苛み、また 孤独をも味わっていたことでしょう。十字架にかかられた主には、申し開きをすることは不可能であったからです。彼自身を含め誰も彼に安らぎを、救いを与え ることは出来ませんでした。そのペテロの目の前に主イエスは現われたのです。「あなたがたに平和があるように。」ぺテロは重荷を解かれました。癒されまし た。そして救われたのです。主イエスによって、主イエスと共に、そして主イエスに在って生きる新しいぺテロがここに生まれました。彼は復活の主に見出され たのです。彼は完全に変えられました。今を生きているのです。彼の内に主イエスが生きておられるのです。今ここに招かれている私たちもペテロと同じなので はないでしょうか。私たちは今朝喜びをもって、このペンテコステの主日を祝っています。どうしてなのでしょうか。私たちが何をしてきていようと、また成し 得なかったとしても、そのことに関わらず救いに招かれていることを知っているからなのではないでしょうか。主イエスはまさに救い主、キリストの平和の内 に、私たちを抱いていて下さるのです。「あなたがたに平和があるように。」これが私たちへの主イエスの御言葉です。そして祝福なのです。さらに主イエス は、私たちに命の息吹を吹き込んで下さり、私たちを喜びの知らせの証し人として遣わされます。この主の御言葉に聴いた後は、もう私たちは新しい存在なので す。新しく生かされるこの幸いを、隣人と呼ばれるすべての人と分かち合うために送り出されます。今日こそが、私たちの命を喜び合うその日なのです。昨日、 合同メソジスト教会(UMC)のメトロポリタンエリアの会議に出席していました。礼拝中、それぞれの教会から、その教会に与えられている賜物を現す一枚の 葉を持ち寄ることになっていました。そこに、一つの木が現れました。その木が現わしているのは、このエリアにある教会の群れそのものです。葉のすべて、一 枚一枚は皆異なっています。自然の中に生きる木々と同じように、そこにある葉の一枚として同じものはありません。私たちはこの互いの相違を、個性、また創 造の神から与えられている賜物と呼ぶのです。この相違、そしてユニークさをもって私たちは互いを養い支え、補完することが出来るのです。その生き方が私た ちから主なる神への生きた礼拝となります。互いに異なるからこそ、私たちはそれぞれの命を祝うことが出来るのです。主に在って生きることです。そして私た ちは主によって一つとされます。主と共に生きる神の民として。